線路を左手にのんびり歩いていると、京王線が、つい先ほど下りた分倍河原駅へとゆるやかにカーブしながら向かっていって、またたくフィルムのようなその窓を見るともなく見ている間にも道のりはいつの間にか真っすぐになり、架道橋をくぐれば目的地はもう目と鼻の先だ。ビルは3階建てなのか、小豆色の壁には300~400mm四方の小さな窓があり、それを1単位とすれば、2つ横並びになった長方形の明り取りと、縦横4つ分ほどの大きな引き違い窓もまた規則的に配されていて、細い階段を上がった2階のループホール、スチールドアを開けたすぐ右手の白壁にもまた“窓”があった。
それこそが田中啓一郎さんの作品で、303mm×303mmの正方形に、厚さである30mmを足した値が、そのまま《636》というタイトルになっている。張られたキャンバス布の表面は鉛筆で精緻に塗られており、中央に現れた、一回り小さい正方形が黒々としているのに対し、周囲は濃いめのグレーで、キャンバスを裏支えする木枠があぶり出されているみたいだ。そして木枠の輪郭部分(すなわち、中央の正方形と、周囲の“枠”との境目)は、特に黒く縁取られている。
キャンバスの四隅を見てみると、一回り小さな正方形の横の辺2本を、そのまま左右に延長したような線が薄く見える。直に確認することはできないが、裏の木枠は、長めの角材2本を上下として、短めのもう2本が左右を支える形で出来ているようだ。
そこから一歩奥へ進むと、チャコールグレーの床はにわかに広がって、振り返ると、先ほどは死角になっていた壁、《636》の配された入口横の壁から直角に続いたそこには《3670 #2》が立てかけられており、題名どおり1820mm×1820mm×30mmの大作だ。正方形のキャンバスを鉛筆で塗っていくことは《636》と共通、というより今回の出展作すべてに当てはまるようだが、《3670 #2》の画面は3×3に9分割され、各正方形はそれぞれに異なる濃度で塗られており、
③⑥⑨
②⑤⑧
①④⑦
とすれば左下の正方形①がもっとも黒い。
2番目に濃く見える左上の③が銀光りして見えるのは、左手から、“正方形2つ分”の大きさの窓越しに外光が注いでいるからで、①③に挟まれた左中央の②は鈍色で、いったん黒く塗られた後、白鉛筆が重ねられたようにも見えたが、そうではなくてキャンバスの白さが奥から滲んでいるのだろう。木枠の輪郭もまた、白地が塗り残されることで縁取られているらしく、そこからさらに右横に並んだ2面、すなわち真ん中の⑤と右中央の⑧は、左列の①②③に比べればだいぶ薄いものの、それでもはっきりと灰色だ(⑧のほうが、⑤よりも少し濃い)。
9面のうち残り4面、右上の⑨、右下の⑦、そして中央列の上下⑥④については、下地の白そのままとおぼしき④から、⑥→⑦→⑨と少しずつ濃くなっていくようだが、それら4面のうちで一番濃い⑨ですら薄灰色で、前述した①②③⑤⑧と比べれば明らかに“白寄り”だ。キャンバス全体を見ると、黒と灰色のラインは、向かって左の“腕”を欠いた十字架のようだし、1面足りない立方体の展開図みたいでもある。
そして9分割された画面は、《636》と同じくキャンバスを裏支えする格子状の木枠の反映なのだろう。仮に木枠の幅を“1”とするならば、左列①②③の左辺や、最上段の③⑥⑨の上辺のように、隣り合う面が無い場合はその“1”の幅が均一に塗られている。しかし、隣接する面の間に位置する木枠については“0.5”ずつ塗り分けられており、そのため、すべての辺が別の面と接する真ん中の⑤が最小で、四隅の①③⑦⑨が最大、その面積差はどうやら木枠1幅分となるようだ。
向かって左から回りこんで裏面を見る。そんなことができるのは、《3670 #2》が、右上の角を壁へ預けるように立てかけられているからで、9分割の画面が予告していたように木枠は格子状になっており、キャンバスの各辺に当たる4本と、格子の縦軸2本はそれぞれ長い1本の木材で、横軸2本は短めの木材を3本ずつ繋げている…と思いきや、木目の続き方を追うとやはり長い1本らしく、格子の縦軸が被さるように組まれていたからそう見えただけのようだ。格子の交点には釘が2本ずつ、右肩上がりの斜線を描くように打ちこまれており、しゃがみこんで見上げていた視線を足下に向ける。
床と接するキャンバスの下辺と格子の縦軸には合印とでもいうのか、Aが1つずつ、全称記号(∀)のごとく床向きに書かれている。さらに頂点同士を貫くように線が引かれることで合わされ、ちょうど格子の真ん中を通っているように見えるそれが、ひるがえって、キャンバスに“あぶり出された”木枠の輪郭を二分する線、そしてその線を共有する面と面とを思い出させて、
[化粧垂木と]同じような例として、町家の表層によく見られる格子を挙げることもできるだろう。格子も、平安時代から建具(蔀)や天井などに用いられるようになったものであるが、資源の節約や軽量化という利点だけでなく、木の「構築性」を生かしながら「空間を覆う」というモティフの二重性が見てとれる。
このように「『組む』ことによって『覆う』」仕組みは、そこに別の魅力が発見され、さらに独特の空間意識が育まれたと考えることもできる。「組む」ことによって空間を覆う場合、その包囲面にはすき間が含まれる。つまり透明性が生まれる。包囲面が実際に見通せる場合、面の重なりを捉えることができ、空間の多層性を志向する「奥性」にもつながる。
(木内俊彦『なぜ、みんな格子が好きなのか?』より。森美術館 編著『建築の日本展 その遺伝子のもたらすもの』Echelle-1,p.61)
キャンバス布によって覆われた格子から向こうを見通すことはもちろんできない。しかし、緻密に重ねられた黒が痣のごとく浮かび上がらせた格子、そのすき間もまた(一回り小さな正方形として)可視化され、フォンタナが、キャンバスを切り裂くことで空虚を呼び込んだとすれば、田中さんは、画面自体を“空虚”に仕立て上げたのではないか。経糸と緯糸、それらが交わる組織点の隆起まで時に浮き彫りにする筆致は布の物質感を強調しつつも、それがかえって、四角く組まれた木枠の間、その“虚空”に向かって頼りなく張られた帆のようなものに過ぎないことを暴いていて(Expose)、黒く塗られた画面はむしろ、抜け穴(Loophole)のごとくどこか“奥”へと続いているみたいだ。
そして、暴いたり、あぶり出したりということは田中さんの作品に通底するのかもしれない。個展形式を採りつつ、アーティスト・大久保ありさんの短編小説との連動企画でもあった「'My answers' / ワンダーフォーゲルクラブに入るための良い答え、 もしくは、四千円を手に入れるためのまあまあな答え [田中啓一郎の応答]」の会場、縦長の廊内の中央に階段が据えられていたのは、奥半分の床が臍から胸のあたりまで高くなっているからだが、《3674-My answer #2》はそこに立てかけられていた。白一色の画面を注視すれば、染みこんだ雨だれのようなベージュがかった線が、30mmほどの幅で均一に走っていたけれど、キャプションいわく綿布らしいその生成りの風合いを塗り残しているようにも、白く塗った後に、細いヤスリかなにかで薄くこすり取ったようにも見えて、画面中央、やや右寄りのあたりでその“雨だれ”はくるんと弧を描いた。階段を上がって裏を覗きこむと、長さ1820mmだという木材が縦一列に30本以上すき間なく並べられており、どうやらそれらの輪郭を1本1本写しとっていたようだ。そしてちょうど、“くるんと弧を描いた雨だれ”にあたる木材には親指の腹ほどの抜け節があったけれど、支持体の四方からは、たっぷりと残されたキャンバスの耳が伸びており四隅のあたりはよく見えなくて、ループホールの、《3670 #2》の裏面を覗き込む視点に戻れば、やはりキャンバスの耳で木枠の角は隠されている。ただ、画面を走る鉛筆の濃淡から、縦の2本が、それらの幅の分だけ短い横2本を挟み込むかたちで正方形を成しているらしいことは見てとれて、田中さんの制作には、素材そのものの持ち味、たとえば木目の流麗さや、キャンバスの目地の均一さ…といったものを暴く、あぶり出す、引き立てる手つきが感じられる。そうした態度は、作品リストに、木材(松)・キャンバス布(麻)・タックス(鉄)…といった要領で素材を細かく列挙することにも表れているが、一方で、それは覆い隠したり、見せなかったりすることによって裏打ちされているのではないか。
たとえば、《3670 #2》でも《3674-My answer #2》でもそうだが、裏から覗けば木枠の木目を見ることはできるものの、キャンバス布と接する面の木目を見ることは当然できないし、ループホールの壁に掛けられた《636》の裏面を見ることも(一般の鑑賞者には)できない。そもそも、田中さんの作品においては“表裏”というのも自明のものではない、グループ展「On the Steps 2024」では、タイトルどおり《636》と寸法を同じくする《636 #24》~《同 #34》が、《1939》《1242》という別サイズの作品と接するように、1つの作品のごとく配されていたが、《636》シリーズの内4作品は“裏向き”に、すなわち木枠側が手前に来るように掛けられていた。しかし、それらを「裏側」と断言しかねるのは、木材の割れや、キャンバス布の折り目といった素材の個性を、あえて見せている雰囲気があるからで、しかし“裏を返せば”、キャンバスの表面は(少なくともその時の)鑑賞者には伏せられているということであり、府中市美術館の市民ギャラリーでも、《LJAOWCSBI 1848 #1》が“裏向き”に展示されていた。
Linen(麻)
Japanese cedar(杉)
Acrylic(アクリル絵具)
Oil(油絵具)
Wood screws(木ねじ)
Canvas Tacks[キャンバス釘(鉄、粉体塗装)]
Staple gun(タッカー)
Brass rod(真鍮棒)
Insect pin(虫ピン)
合わせて展示された《LJAOWCSBI 1848 #2》と、《LJAOWCSBI 1242 #1》および《同 #2》を含む4作品のタイトルに付されたアルファベットが、使用素材の頭文字であることもまた素材に対するこだわりをうかがわせつつ、塗り分けられた各面はもはや正方形ではない。右上に配された《LJAOWCSBI 1848 #2》の画面は、直角三角形と、“傾いだ屋根のお家”めいた五角形と、直角を1つだけ持った四角形に3分割されており、どうやら、裏の木材が格子状ではなく、長方形の画面の向かって左肩を袈裟切りにし、そのまま返す刀で右から左へ薙いだかのように配されているらしい。そして、分割されたその画面が縫い合わされたように思われたのは、面ごとに麻布の目地のつまり具合が異なって見えたからで、特に、黒く塗られた右上の直角三角形は目地が粗く布自体も薄く感じられて、それは絵具の濃度や、キャンバスのテンションによる影響かもしれない。3つの面は、キャンバスの張り具合もそれぞれに違っており、左上のいびつな四角形、麻の生成りそのままとおぼしきそのテンションを“普通”とすれば、下部の五角形は高めなのか、木枠の内側部分がデボス加工のように凹んでいるのに対し、黒い直角三角形はゆるく波打っていた。
壁の左下に掛けられた同シリーズの《LJAOWCSBI 1848 #1》は、踏み桟の傾いたハシゴのような木枠をこちらに向けており、
「麻布に水性塗料 Distemper on linen」と表記されるこの種の作品群を裏面から見ると、画布の布目を通過した絵具が、作品と同寸法の「反転図」を描き出しているさまが確認できる。ドイグは、薄く溶いた絵具を何度も重ね、時間をかけて作品を制作する。つまるところ、この裏面に浮かび上がる巨大な「反転図」=しみは、表から作品を鑑賞する際には確認できない第一層の描画の痕跡なのである。おそらく作家の意図を超えたところで、もうひとつの豊かな景色が作品の裏に表出していることになる。
(田口かおり『「裏」からピーター・ドイグの絵画を見ること』https://www.momat.go.jp/magazine/022,2025年8月8日閲覧)
同じく3分割された画面、その上部の四角形からは、「画布の布目を通過した絵具が、作品と同寸法の『反転図』を描き出している」かのように黒がにじみ、左の木枠には作品タイトルとサインもまた記入されていた。そして、それら4作品は真鍮のフックによって、壁から50mm弱ほど離されており、真横に立てば作品の裏(あるいは表)が垣間見られたのだが、その距離感もまた綿密に決定されたはずで、改めて田中さんは、何を見せ、何を見せないかということに対して極めて自覚的だ。
ぼくらはそもそも、
自分を咬んだり刺したりする本だけを読むべきではないだろうか。
僕らが読んでいる本が、
頭をガツンと一撃して、ぼくらを目覚めさせてくれないなら、
いったい何のために、ぼくらは本を読むのか?
本とは、
ぼくらの内の氷結した海を砕く
斧でなければならない。
(1904年1月27日に、カフカが友人のオスカー・ポラックへ宛てた手紙。頭木弘樹 編訳『カフカ断片集―海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ―』新潮文庫,p.222より孫引き)
と語られる「本」には、もちろん美術や芸術もまた代入することができるはずで、田中さんは作品という“斧”で、鑑賞者に勝負を挑んでいるのだろう。2023年のループホールへ舞い戻れば、《3670 #2》を左手から照らす横長の窓辺には、呼応するように縦303mm×横606mm×幅30mmの《939 #2》が置かれていた。分割された画面、その右面がほとんど下地のままらしい一方で、左面には薄塗りを施してあり、下辺の木枠沿いに裂けたキャンバスから、15時前の光がうっすらこぼれていたけれど、右隣りの壁面には《939 #1》が、今度は縦長に掛けられていた。その側面を見ると釘が5本打ち込まれており、しゃがんで底辺を覗き込めば釘は3本で、《3670 #2》と向かい合う面に掛けられた《1850》、910mm×910mm×30mmのその1辺には7本、《3670 #2》では13本…と、釘はおそらく、各辺の両端にまず1本ずつ、その後150mmごとに追加されていくらしいことも予想されて、こうして釘を数えていると、横長のキャンバス向かって右側、あるいは左側がスケートボードのアールのごとく90度湾曲した《1515 #1》や《同 #2》のように、釘の打ち込まれた側面が作品の真正面を向いていた(斜め横に立てば、持ち上がった裏面の格子も見えた)ことを思い出して、田中さんからの“挑戦”に応答していたつもりだが、それもまた彼の術中だったのかもしれない。
そして、《3670 #2》の向かって右横には《3670 # 1》があり、黒と灰色のラインが、十字架の右腕を落としたような画面は一見鏡合わせのようにも見えるけれど、濃淡の配置が異なっており、たとえば《3670 #2》では、
③⑥⑨
②⑤⑧
①④⑦
左下の①が最も濃く塗られていたのに対して、こちらの《3670 #1》では真ん中⑤が最も黒く、そして《3670 #2》では黒がちの3面が左の縦列①②③に寄っていたのに対し、《3670 #1》では中段の②⑤⑧が比較的濃くなっている。
しかし、《3670 #2》と向かい合う面に掛けられた《1850》、縦横に4分割されたその画面は45度の角度で掛けられていたのだが、白い下地そのままの1面が真上を向き、そこから時計周りに黒→濃いグレー→薄いグレーと推移する画面をぐるぐる回してみても《3670 #1》の配置と一致する箇所はない(黒と濃いグレーの面が反対になっている)。一方、《3670 #2》では左下の4面①②④⑤と濃淡の配置がおおむね一致し、同様に、黒白の面が縦一列に並んだ《939 #1》と、灰白色と下地の面が横並びになった《939 #2》の配置とも見比べてみると、これらについては《3670 #1》の⑤④および①④と、そして《3670 #2》の①④および⑦④と合致しており…といった具合にあれこれ回してみたくなるのも、《1020》や《1105》と題された作品、栞代わりに端を折ったページのごとく、キャンバスの角が木枠ごと“折れ曲がった”それらが、田中さんのInstagram投稿いわく“The work has no specific direction (Front or back. And also, top, bottom, left or right.)”であることとも通ずるかもしれない。
そして、ループホールの出入り口に掛けられた《636》、すなわち303mm×303mmの作品に始まり、303mm×606mm、910mm×910mm、1820mm×1820mmとサイズが拡大するにつれ、1面、2面、4面、9面と複雑さを増しつつも規則性を保ち、それによって相互に連関し、明快さすら感じさせるのはどこかバッハの音楽を連想させて、そしてこれらの数値を改めて眺めてみると、1尺、2尺、3尺、6尺(=1間)となっており、
一八二九年三月二十三日 月曜日
「私の持っている原稿類の中に」と今日ゲーテはいった、「建築はこりかたまった音楽だといっている紙を見つけたよ。じっさい、これは含みのある言葉だな。建築から流れ出る雰囲気というものは、音楽の効果に近いものがあるからね。」
(エッカーマン 著,山下肇 訳『ゲーテとの対話(中)』岩波文庫,p.98』)
(40)これは一八三三年にエッカーマンによって『箴言と省察』という標題をつけて『遺稿』第四巻に収められた。「こりかたまった音楽」という語はシェリングのものであるが、建築芸術と音楽との芸術的親和性を、ゲーテは若いときと同様、晩年にも感じていた。なお、ゲーテは、建築を「無声の音楽」と名づけている。
(同書p.396より訳注)
田中さんの作品もまた、松、麻、鉄…といった素材が奏でる「無声の音楽」なのだろう。〈了〉
注)本稿は、2023年6月13日にメディアプラットフォーム「note」で発表した『田中啓一郎さん「Expose」(ループホール,2023/5/13-6/4)』https://note.com/nozomu_h/n/n85f6fb30aae4 を改題ののち加筆修正したものである。なお、タイトルは、文中に引用したカフカの一節による。
備考)本文にて言及した展覧会の詳細は以下のとおりである。
〇「Expose」_田中啓一郎_2023年5月13日~6月4日_LOOP HOLE_東京都府中市美好町1-1-18 石川ビル202
〇「'My answers' / ワンダーフォーゲルクラブに入るための良い答え、 もしくは、四千円を手に入れるためのまあまあな答え [田中啓一郎の応答]」_原案執筆/大久保あり、出展作家/田中啓一郎_2023年2月25日〜3月12日_higure 17-15 cas_東京都荒川区西日暮里3-17-15
〇「On the Steps 2024」_新埜康平、安藤 菫、木本小百合、田中啓一郎、成山亜衣_2024年1月24日~2月3日_Steps Gallery_東京都中央区銀座4-4-13 琉映ビル 5F
〇「LOOP HOLE Pavilion」_秋山 幸、安藤由莉、池崎拓也、石井トミイ、石川 遼、今井俊介、今井貴広、今村 仁、EKKO、大久保あり、大槻英世、岡野智史、小川 泰、O JUN、小野冬黄、小山維子、金田実生、鹿野震一郎、岸本雅樹、木下令子、木村俊幸、ケ(旧hanage)、小嶋基弘、五嶋英門、小林史子(資料展示)、齋藤雄介、酒井一吉、佐々木耕太、佐藤克久、佐藤万絵子、清水勇気、下山健太郎、ジャンボスズキ、進藤 環、杉山都葵、五月女哲平、田中啓一郎、棰石憲蔵、寺内大登、なしの、塙 将良、林 菜穂、原 汐莉、Piotr Bujak、藤原優子、ホリグチシンゴ、松本菜々、水上愛美、光藤雄介、水戸部七絵、宮崎勇次郎、宮本穂曇、ミルク倉庫ザココナッツ、村上 綾、村上 郁、横田 章、渡辺 豊_2025年8月2~11日_府中市美術館 市民ギャラリー_東京都府中市浅間町1-3
〇「矢野口で逢おうよ」_齋藤雄介、ジャンボスズキ、田中啓一郎、鹿野震一郎、下山健太郎_2021年11月7日_YANOKUCHI STUDIO_東京都稲城市矢野口417 ※《1515 #1》および《同 #2》を展示
〇「同時期」_下山健太郎、田中啓一郎、村田 啓_2021年12月11日~2022年1月30日_アズマテイプロジェクト_神奈川県横浜市中区長者町7-112 伊勢佐木町センタービル3F ※《1020》および《1105》を展示
障子のような構造をした背丈より少し高い立体物が床に置かれていた。角材で綺麗に組まれた格子状の構造体に赤や白や濁色によってところどころ彩色された麻布が張られ、それが木枠の側面にキャンバスタックで等間隔に打ち付けられている様子から、それはキャンバス作品であり「絵画」であることを示しているように見えた。ただしこの立体物の片端は湾曲しながら麻布に綺麗な三次曲面を形作らせており、鑑賞者はその裏側まで自然と導かれることになる。他の作品もキャンバスの構造に手を加えながら同じように三次曲面を作らせていて、その張力の仕掛けを見せつけるかのように壁や床に展示されている。しかし、それらは表裏が明確に配置されており、冒頭の作品が明らかに質を異にするものだったという事がわかる。つまり、作品の表裏を問いかけるてくるように仕掛けられていたのだ。それは一見絵画らしい構造を保ちながら、窓から差し込む自然光が麻布の粗い織り目を通り抜け──絵の具によって光が遮られ陰となり──木枠の影を画面に落とし──描かれた図像以外の情報が多く舞台裏のような印象を持つものだった。木枠と画布の関係では表側であるはずの面が後ろ向きに配置されていたのだ。だがそもそも360度から鑑賞できるように作り配置されているこの作品は絵画に分類できるものなのか。かといって立体作品なのかと言えば絵画的要素の強さがその考えを受け付けようとしない。
私が企画した展覧会に田中くんはこれまで二度参加してくれた。紙の薄さや伸縮性を利用した作品や画板を分解して再構成したものなど、規格通りのサイズを用いた身近な素材にあえて手を加えた作品だった。どれも美術作品につきまとう完成までの長い道のりを示す手数や労力を極力感じさせまいとするある種職人のようなスマートさを感じさせ、禁欲的とさえ言えるものだった。この姿勢は本展の作品にも通じている。偶発的に生まれる絵の具の表情はほとんど見受けられず、画布を支える木枠の比率や寸法を基準に色面で丁寧に塗り分けられ、本来であれば画家の腕の見せ所ともいえる筆致をなるべく残さずひっそりと定着させている。また、作品タイトルは4桁の数字のみが並び、S2号~M300号といった規定サイズとともに数学的に表記されていた。
田中くんは以下のような文章を本展に寄せている。
「人は意味を決めること或いは知ることによって物や事の認識を共有可能にしているが、同時にそれは思考することも完了されてしまっている状態と考えている。そのような認識を表現の素材とし態度を変更することで、物や事との関係を再構築する。(後略)」
この「名前を与える前」の作品群は、既製品を分解し、本来の目的とは異なる形に成形していくという工程で生み出された物たちだと言えるだろう。それは、既にある物質や規定された物事の原則が留まる境界線上で、一旦宙ぶらりんの状態を獲得するべく細工を施し、創作物の立ち位置を開拓していく態度なのかもしれない。つまり、冒頭の作品[4378 / M300号]は、絵画という形式における画布を支える木枠のデザインから構想されつつも三次曲面を生み出すことによって表裏の関係を解体し、二次元から解き放つことを目的とした床置きのキャンバス作品なのであり、それを「どう名付けるか」を問うものだ。常に新しい視座の獲得を目指して彷徨い、画架を捨て、壁面からも逃れようとしてきた歴史、絵画という媒体の魅力。その実体を探求し続けて新しい表現を模索する美術家は後を絶たない。それは湧水が谷を削り大河となって大海を満たすという自然の営みにも例えられるが、実際にはあらゆる分野において横断を前提とした細分化が推し進められ、大海原からまだ見ぬ源泉をそれぞれが目指すようなふりをして河口あたりの汽水域で漂っているかのように映って見えはしまいか。だが今回の田中くんの展覧会からは、未だ見ぬものを生み出そうという純粋な姿勢が窺え、いつかその行為に名付けるのだという意志を感じた。それは、名もなき行為を目撃し記録していくという我々のプロジェクトの原点に通じるものだ。
彼のスタジオに幾度か訪れたことがある。
几帳面に整えられた工具や筆。
白い壁には小さな紙に描かれたエスキースがところどころに貼られている。
実験ピースは宝の原石だと言わんばかりに散らばり、
所狭しと並ぶ作品群はスタジオを飛び出していたるところに点在していた。
彼はいつもその場所で、挽きたての豆で美味しいコーヒーを淹れてくれる。
そして口早に制作の経過、新しい作品の構造
あるいは最近の出来事について話を聞かせてくれる。
その度に、ああ、この人間はつくることへのワクワクが止まらないのだろうなあ。
きっと言葉に言い表し尽くせないドキッとするような風景を存在させたいのだろうなあ。
と思わずにはいられなくなる。
田中啓一郎の生み出す作品は、360度格好が良い。
モダンな色彩もさることながら、木の年輪がつくりだす模様までもを味方につけ、
佇む場所によって作品は表情を豊かに変えてみせる。
彼の手作業の恩恵を受けた木材は、
木枠本来の働きを尊重しつつカタチを覚えていき、
さらに、風合いたっぷりの麻の地もここぞと纏わり付き、いざ成立へ向かう。
そこにすーっと伸びる彼等身大の筆致からは描くという行為への誠意を感じ取れる。
素材に向けるストイックな姿勢と心地のよい戯れに魅了されると共に、
作品の洗練された無骨さが彼の技量と人となりを強く教えてくれる。
飽くなき追求心はいつまでも美しい瞬間を追うのだろう。
それはわたしたちに美術への浪漫を思い出させる。
VIVIDORとはスペインのワイナリー、ボデーガス・アラーエスが醸造するワインの名称であり、その意味はこの展覧会のサブタイトルにもなっている「人生を謳歌する人」だと言います。本展はこの展覧会名のもと出品を依頼された29作家による映像作品展です。各出展作家はそれぞれアーティストとして活動していますが、映像をその主たる表現手段としていません。このレビュー執筆の依頼を受けた私はほとんどの出展作家から出品作についてのお話を伺いましたが、中には本展が初めての映像作品制作だという方もいらっしゃいました。さて本展もスマートフォンで一部や全編が撮影された作品が複数含まれますが、この15年ほどの間にスマートフォンが広く流通する事から写真撮影、そして動画撮影を行う機会と人口が世界中で爆発的に増加しています。そしてさらに撮影された映像の加工や編集作業も誰もが手軽で気楽に可能な状況へと年々変化して来ました。一方で、本展参加作家の年齢層にはやや幅がありますが、いずれも撮影習慣の普及よりずっと以前からテレビや映画などを通じて映像文化が生活に身近な世代であると言えます。それはつまり映像表現に関して皆が皆とても目が肥えているという事であり、様々な演出効果の知識が豊富であるという事です。29作家の29作品は実に多様ながらいずれもまさか映像をその主たる表現手段としない作家の手による物だとは思えません。ここに技術の壁はありません。29の作品は作り込まれた物から非常にシンプルに撮影、編集された物まで種々様々ですが、その技術の差が内容の本質的な差になるとは誰も考えてはいないように見えます。技術はほとんど空気のように存在を感じさせません。さて何か疾患を患っている方でない限り空気とはたしかに日常にその存在を主張してくるような物ではありませんし一見無色透明ですが、無個性というわけではありません。埃舞う廃屋の空気、雨の香る夕暮れ、からっからの砂漠の空気、険悪な会議室、風通しのいい友人関係、世の中には様々に表される空気がありますが、表されない空気もまた純粋に何も含まぬ透明ではきっとありません。本展フライヤーには「表現に対する探究が止むこともない。創作に没頭する喜びを手放すこともない。私たちはVIVIDORであり続ける。」というアズマテイプロジェクトからのメッセージが添えられています。参加作家はそれぞれ「人生を謳歌する人」であるというわけです。アーティストにとって謳歌とはその作品表現と言えるでしょうか。展覧会はコロナ禍で あり会場では窓が開け放たれていましたが、その空気は私たちの謳歌とは一体何に下支えされた存在なのかと問い掛け、作品と作品を繋ぐインターバルは私たちの人生の正体への直感を迫って来るかに思われました。展覧会が終わり、29作品を鑑賞し終えた今もまだ、インターバルはひっそりとその存在の大きさを増すばかりです。
VIVIDOR is the name of a wine made by a Spanish winery, Bodegas Antonio Arráez. According to their website, it means, “someone who enjoys life to the fullest and loves new experiences,” which is also the subtitle of this exhibition. The exhibition consists of video works by twenty-nine artists, who have been asked to create their contributions in response to the title. Video is not their usual medium. I interviewed most of the artists and found out that, for some, this is even their very first attempt at making video work. As you see, the exhibition includes many works shot entirely or partially on smartphone. With the spread of smartphones, the number of people and opportunities for shooting photos and movies has grown explosively over these past fifteen years or so. And year after year, the development of related technology has allowed us to process and edit movies more easily and freely. On the other hand, it can be said that although the range of the artists’ age groups is rather wide, all of them are of a generation who have already been familiar with visual culture in daily life, through watching TVs and movies, way before this casual documentation became mainstream. In other words, they all have critical eyes on visual expression and a wide breadth of knowledge about the effects of production. These twenty-nine works by twenty-nine artists vary a great deal in terms of expression, and it is almost impossible to believe that the resulting works are by artists whose main medium is not video. There is no technical barrier here. The twenty-nine works depict a wide variety of content, from plainly shot and edited submissions, to more elaborate fare. However, it would seem that none of the artists think that the quotient of “skill” matters at all. In fact, so called “skills” are almost like air in these works. Air won’t claim its existence and it’s something you are not aware of in daily lives as long as you don’t have any related disorders or sickness. It seemingly is colorless but it must have individuality. There are so many ways of describing air: dusty air in a deserted house, the familiar smell of petrichor in the afternoon, scorching air in a desert all adust, the stiff air of an ugly meeting, the cozy air between good friends, and even if you don’t have any word to describe a particular strain of air, I believe it must not be just colorless, but also possess some elements that can be tangibly felt. We have read the message from the Azumatei Project, emblazoned on the flyer, “Our pursuit of expression won’t stop. We won’t let go of the joy of immersion in creation. We will stay VIVIDOR forever”. That means every single artist in this exhibition is a VIVIDOR, someone who enjoys life to the fullest and loves new experiences. However, for artists, the gambit about expressing themselves in their works is whether just enjoying life to the full extent or not is still unknown. Appreciating the screening in the room, with windows wide open due to Covid-19 pandemic, I felt that the air was asking me by what our enjoyment of life is supported, and the short intervals between each videos pushed me to the edge of instinct in pondering what our lives truly are. Even now after the screening is over, the intervals are still increasing their presence secretly inside my mind.
© 2025 Keiichiro Tanaka All Rights Reserved.